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静かだった湖畔の空気が、唐突に騒がしくなった。 草木の影が一斉に揺れると、次の瞬間、矢と刃が同時に飛来する。「――伏せろッ!」 セリュオスの声が響くより早く、風を切る音が連続した。 狙いは散らされてはいたが、そのすべてが仲間たちの急所を外さない位置にあった。 ほんの一瞬でもセリュオスの声掛けが遅れていれば、誰かが倒れていたかもしれない。 仲間たちはそれぞれ回避や防御を選択し、金属のぶつかり合う甲高い音や地面に矢が突き刺さる音が立て続けに鳴った。 攻撃の出所から敵の姿を捉えたと思った瞬間には、すでに別の位置から次の一撃が放たれていた。 隠れた刺客たちは、一ヶ所から一斉に攻撃を仕掛けているわけではなかった。 先に攻撃した者たちが攻められる前に、次の攻撃を仕掛けてくる。 さらには、決して正面からは攻めてこないという徹底ぶりだった。「……コソコソと隠れてないで、姿を見せなよ!」 レバザが歯噛みし、霧を周囲に展開した。 白濁した霧が湖畔一帯を覆い、視界を塗り潰していく。 だが、刺客たちが霧に捕らわれることはない。 霧の縁を滑るように移動し、まるで霧に捕らわれない道筋を知っているかのようにすり抜けていく。 巨樹の根元、岩の陰、茂みの盛り上がり。 地形そのものと一体化するように、その姿を消しては死角を探しての攻撃を繰り返す。「……霧で見えにくくなっていても、この辺りの地形を完全に把握しているとでも言うのかしら?」 エレージアが首を傾げながら呟いた。 敵は予めセリュオスたちがここに来ることを知っていて、この地を戦場として選んだということだろうか。「くっ、ちょこまかしやがってェ!」 ガドルが前衛の刺客たちの前に出る。 その鋼の拳が唸りを上げ、地面へと叩き込んだ。 凄まじい轟音が鳴り響き、地表が砕けると、衝撃が波のように広がっていった。 だが、刺客たちは紙一重で跳び退き、目ぼしい被害は与えられない。 むしろ、その瞬間を待っていたかのように、別方向から飛来した矢がガドルの肩を掠めた。「――チィッ!」 頑丈な身体に切り傷が生まれ、赤い色が滲み出す。 致命傷というわけではないが、確実に削られていた。「数も動きも、完全に
巨大な湖は、相変わらず沈黙を守っていた。 岸辺に立つ一行の影が水面に歪んで映る。 水面は鈍く揺れ、ただ重たそうに波打っている。 まるで湖底に沈んでいるものを、意図的に隠しているかのように。「……要するに、その翠玉ってヤツが、この濁った水の底で眠ってるってわけだよなァ……」 ガドルが湖を見下ろしながら言った。 何か策がないか考えている様子だったが、結局答えは出なかったらしく、すぐに頭を掻いて諦めていた。 不透明な湖水はあまりにも汚く、底はおろか、水深すら見当がつかず、どこまで続いているのかもわからない。 水面の奥に視線を凝らすほど、得体の知れない不安だけが募っていく。「よりにもよって、この汚さだからね……でも、アタイらは翠玉を手に入れる必要があると」 レバザが顔を顰め、鼻を押さえる。 湿った風が吹く度、湖特有の澱んだ匂いが漂ってきた。「で、誰が潜るんだい?」 レバザの言葉に、セリュオスは腕を組んで仲間たちを見渡す。 すると、仲間たちの間に沈黙が落ちた。 それぞれが無意識のうちに、湖からもセリュオスからも視線を逸らす。「……正直に言いますが、僕は……泳げません!」 最初に声を上げたのは、シエルハだった。 少し身を縮めながら、申し訳なさそうに手を挙げている。 そう言い切った声は張り詰めた空気の中で、妙に響いた。「水に入ること自体が苦手なんです……。それに……こんな濁った湖ではさすがに溺れてしまいます……」 「樹上の民は、汚水に入る文化はない」 次に淡々と言ったのはアシリィだ。 そこに迷いはなかった。 彼女は湖を一瞥しただけで、すぐに視線を戻す。 種族としての決まりではありつつも、個人的にも拒絶していそうだった。「あっしら地を這う民は、その、水が苦手だからよォ……自分の身長より深い水に入っちまうと、身体が言うこと聞かなくなっちまうんだァ。情けねぇ話だと思うんだがなァ……」 ガドルが視線を泳がせながら告げる。 だが、誰もガドルの言葉を笑うようなことはしない。 それが冗談ではないことを全員が理解していた。「私は別に入ってもいいと思ってたんだけど……なぜか、この湖が……私を拒絶するのよね」
オルデリウスの導きの光は、霧の中を縫うように西へと伸びていた。 樹上の民の祭壇から遠ざかっていくにつれて、周囲の空気は目に見えて変わっていった。 湿り気を帯びて重くなった霧が、セリュオスたちに襲い掛かってきたのだ。 まるで魔物のように牙を剥いてきた。 霧の民であるレバザがいなければ、一苦労していたことだろう。 なぜ霧が牙を剥いてきたのか、その理由はすぐにわかった。 セリュオスたちは、自然にできた森とは明らかに異なる大地に足を踏み入れたのだ。「……ここは……アタイら霧の民の先祖様方が眠ってる……大墳墓かい」 足を止めたレバザが低く息を吐くように呟いた。 その声は霧に吸い込まれ、すぐに消えていく。「大墳墓……ほぼ山だな」 墓所というよりも、完全に山だった。 そう思いつつも、気を緩めるようなことはしなかった。 ここは生者のための場所ではない。 踏み込むこと自体が何かを侵しているような感覚が、肌の奥にまで染み込んでくるのだ。「私たち樹上の民でさえ、観測を阻まれた聖域」 地面は硬く、石畳の名残のようなものが霧の下に埋もれていた。 ところどころに朽ちかけた石柱や、用途のわからない構造物の断片が突き出ている。「普段なら、アタイらでも滅多に近づくことがない禁域なんだけどねぇ」 霧の民にとって、この地は先祖を悼む聖域であると同時に、安易に立ち入ることを禁じられた場所なのだろう。「生きてる霧の民が、ほとんど近づかねぇ理由も……わかる気がするなァ。ここはなんだか、不気味すぎる」 ガドルが無意識に下を向いている。 いつもの軽口は鳴りを潜め、その声には僅かな緊張が混じっていた。 視界が数十歩先までしか利かない濃い霧の中心に――異様な存在感を放つ何かが、確かに鎮座しているのを感じ取った。「……あれは……なんだ?」 セリュオスの視線が、自然とそこに引き寄せられる。 近づくセリュオスたちの目に入ってきたのは、自然の岩とは明らかに異なる造形物だった。 壁面には風化した彫刻が連なり、長い年月で削られながらも、その形を保っているように見えた。 人とも獣ともつかぬ像が並び、奇怪な紋様が刻まれている。 誰が、いつ、何のために刻んだのか。 それを知る者はなく、ただ無
樹上の民が守ってきた祭壇の周囲では、木々の葉擦れが低く、一定のリズムで続いていた。 それは祈りにも聞こえるようでいて、警告のようでもあった。 祭壇の中央に立つアシリィは、周囲の空気に一切呑まれることなく、凛と背筋を伸ばしている。 覚悟の決まったセリュオスではあったが、次の問題はこれからどこに向かえばいいかだった。「それで、湖底に眠る翠玉の位置だけど……」 アシリィの一言で、セリュオスたちの意識は一斉に引き寄せられた。 勇者であるセリュオスはもちろん、一行がその視線をアシリィに集中させていた。 彼女が大切な情報を告げようとしている。 誰もがそう感じていた。「……実はわからない」 一瞬、すべての音が止んだように錯覚するほどの間が落ちた。 アシリィの言葉の意味を咀嚼するより先に、感情が先行する。 呆気に取られたような沈黙がしばらく続いた後、誰かが小さく溜息をついた。 アシリィに調子を狂わされるのは、これで何度目だろうか。 セリュオスは内心で苦笑しながらも、すぐに表情を引き締めた。「つまり、探すことも含めて試練だと?」 セリュオスの問いに、アシリィは一切躊躇うことなく頷く。「長がそう言っていた」 「アシリィはその長に言われて、ここに来たのか?」 「そうとも言えるし、そうではないとも言える」 曖昧すぎてわからない。 結局、どっちなんだ。 まあ、いずれにせよ、アシリィが樹上の民の長に話を聞いたうえで、セリュオスたちの前に現れたことは確かだろう。「でもよォ、何かヒントくらいねえとなァ……」 ガドルが眉を顰めながら、低く唸るように言った。「ない」 だが、アシリィはきっぱりと言い切る。 その声音に情はなく、ただ事実だけが乗せられていた。「じゃあどうするってんだ、旦那ァ? 闇雲に探すわけにもいかねえし……」 「頼みの綱が切れてるなら、アタイらはこれからどうしたらいいんだい?」 ガドルが半ば投げやりに声を上げたと思いきや、その次はレバザだった。 次々に漏れる声は、先の見通せない不安を示していた。 場所すら定かではない湖の底を手がかりなしに探せ
戦いが終わった後、静かな夜を過ごしたセリュオスたちは、霧の民の拠点の入り口の門の下に集まっていた。 その時間は思いのほかゆったりと流れ、一行は最後の一人がそこに現れるのを今か今かと待ち続けていた。 不思議な体験の余熱はまだ残っているが、休んでばかりはいられない。 セリュオスたちはこの世界の魔王を倒さなければならないのだ。 そんなセリュオスたちの心を知ってか知らずか、周囲の空気は澄み渡っていた。 なかなか姿を見せない仲間の一人に心をかき乱され、そんなに時間は経っていないはずなのに、数時間も待たされている気分だった。 だが、一行の不安を拭う用に、一定のリズムを刻んだ足音が彼らのもとに近づいてきた。 また一緒に旅立てることを期待しながら、セリュオスたちは彼女を待ち続ける。「レバザの姐御ォ」 最初に沈黙を破ったのは、ガドルだ。 「その恰好、旦那について行くってことで……いいんだよなァ?」 レバザはガドルをチラッと見てから、僅かに口角を上げた。 「ああ、勇者に気づかせてもらったからね。でも、その前に……」 一度息を吸ってから、彼女は口を開いた。「シル=ネムの親玉である魔王ドライシュトラにも、ひと言くらい文句を言ってやらないと、気が済まないだろ?」 すると、ガドルが喉を鳴らしながら、小さく笑った。 「ハハ……本調子に戻ったみてぇで、何よりだァ」 少し後ろで聞いていたエレージアは、視線を逸らしたまま、ほんの一瞬だけ表情を曇らせる。 「……でも、無理はしないで頂戴。あなたが現実に戻って来れたのは、ほとんど奇跡みたいなものなのよ」 「それも、わかってるさね。勇者がいなかったら、今アタイはここにいない。迷惑かけた分、アンタたちの力になるつもりだよ」 レバザはあっさりと答える。「それは心強いな」 セリュオスの言葉に嘘はなかった。 エレージアも納得したように頷き、ついに一行は霧の民の拠点を出発することになった。 シエルハだけは最後まで名残惜しそうにしていたが、まだ若いのだから、今後も訪れる機会はあるだろう。 拠点を離れてから、勇者一行の足取りは自然と揃っていた。 セリュオスを筆頭に、エレージア、ガドル、シエルハ、レバザ、そしてアシリィ。
シル=ネムが幻霧によって生み出した戦場は、白だけではなく、黒、紫、深緑――様々な色で包まれていた。 それは怒りや恐怖、後悔、誇りといった、シル=ネムのものとは異なる誰かの感情から形成されているようだった。 幾重にも折り重なった感情が霧となり、戦場に渦巻いている。 その中にはきっと、レバザのものも含まれているのだろう。 霧は視界を歪ませ、距離感を狂わせる。 世界の音は反響し、足音すら信用できない。 だが、その中心には一人の揺るがぬ背中があった。「……勇者! そっちは任せたからね!」 レバザがシル=ネムと斬り結ぶ。 その背は、今まで幸福な夢に浸かっていた者とは思えないほど逞しかった。「わかってる! 俺たちが自分自身に負けるわけにはいかない!」 セリュオスたちの目の前にいるのは、確かにこれまで霧の民を導いてきた戦士長のレバザだった。 幾つもの霧が、彼女の周囲で荒れている。 対峙するシル=ネムは巨鎌を作り出し、レバザの斧槍に対応している。 セリュオスにできることは、彼女を信じて自身の幻影に勝つことだけだ。「あっしも、いいとこ見せてやんなきゃなァ!」 ガドルが豪快に笑いながら、自身の幻影を殴り飛ばす。 「ガドル!」 だが、即座にエレージアの鋭い声が飛んだ。「調子に乗るのは止めなさい! 幻に釣られたら、足元を掬われるわよ!」 「へいへい! わかってますよォ!」 注意されながらも、ガドルの陽気さは変わらない。 鋼の拳を構えながら、立ち上がった自身の幻影へと突っ込んでいく。「……偽物の割に、強くないか?」 セリュオスが感じたように、自身の幻影は単なる偽物ではなかった。 武器がぶつかり合うたび、精神に干渉してくるのだ。 体内からこちらを蝕もうとしてくる。「……っ、ちくしょう……!」 最初に止まったのは、ガドルの足だった。 その隙を狙うように、ガドルの幻影が一気に距離を詰める。「だから、調子に乗るなって言ったでしょう!」 間一髪、エレージアがガドルを守っていた。 その後、ガドルはエレージアが生み出した魔力の流れによって、その頭を叩かれていた。「姐さん! 助かったぜェ!」 エレー
ルゥン・ヴォルフ――魔王軍の尖兵である巨狼を退けた夜から、村の空気は一変した。 村人の誰もが震えながらも、勇者の紋章を宿した青年の存在に希望を見出していた。 そして勇者として覚醒することになったセリュオス自身は、自分が魔王軍と戦うことの意味を真剣に考えるようになった。 今までのように義父母の手伝いをしているだけではいられなくなったのだ。「魔王軍の侵攻がすぐに始まるだろう。勇者は早々に旅立たねばならぬぞ」 翌朝の村会議で、村長がセリュオスに向かって告げた。 そう告げられた時、セリュオスはある悩みを抱えていた。 その時は、ただ拳を握り締め
この世界――アルスヴェリアには、とある勇者の伽噺話がある。 真っ暗な地中世界、緑溢れる樹海、呼吸すら困難な毒沼地帯。 燃え滾る火山の国、すべてが凍った景色。 金銀の輝かしい財宝、そして天空を支配する霹靂の魔王。 まさに勇者の大冒険。 それは遥か昔から伝えられてきた古いお話だ。 辺境のリオネルディアの村に住む青年のセリュオスは、その御伽話が子どもの頃から大好きだった。 勇者になった者が共に戦う仲間を集めて、人間たちを苦しめる魔王を倒すどこにでもあるような伝承。 でも、その勇者には普通と違う点が一つだけあった。 それ
酒場の灯りが暖かく揺れている。 石造りの壁に吊るされたランプの火が、木の長椅子や酒樽を柔らかく照らし、賑やかな笑い声や歌声が響いていた。 酔ったドワーフたちが腕を組んで歌い、卓上では豪快に肉と麦酒が飛び交っている。 その片隅に、セリュオスとフィオラは腰を下ろしていた。 二人の前に並んでいるのは焼いた獣肉の皿と、香草を利かせた野菜の煮込み。 それを前にしながらも、フィオラは落ち着かない表情を浮かべている。「……酒臭い……」 「そうか?」 「匂いだけじゃない。声も、空気からも臭ってくる。酔っぱらいの大声なんて聞いてると、頭が割れ
朝日が酒場の窓から差し込み、破損した木の梁や割れた酒樽を黄金色に照らしている。 昨夜の乱闘の跡は生々しく、倒れた椅子や割れた食器が床に散らばり、破片だけでなく酒の匂いも残っていた。 セリュオスは膝をつき、杖のように手をついて床を押さえながら、重い息を吐いた。 「……はぁ、ひどい有様だな」 そう呟くと、隣でダルクも荒い息を整えながら同意する。「まったく、昨日のオレたちは何をやってたんだ……」 「あなたたちが大騒ぎしたせいで、私まで手伝わされてるんだからね!」 フィオラは少し離れた場所で、渋い顔をしてこちらに厳しい視線を向けている







